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NO,001 |
■ 倭館
1月
著者:田代 和生
出版:株式会社 文藝春秋
江戸時代を通じて明治初頭まで続いた、韓国釜山にあった日本人町が「倭館」である。
以前何かの本で徳川家光が倭館で焼き物を作らせ、これを「唐渡り物」と称して国内に流通
させたと書いてあった。その中に出てきた「倭館」というのをこの時初めて知った。
長崎の出島のように、外国人町として機能したそんな日本人の町が、鎖国状態の江戸時代に
あったという事は、今まで聞いた事がなかった。
「倭館」とは、どんな町なんだろうと興味を持っていたところに、たまたま目に入ったのが
この本である。
鎖国状態とはいえ、海外との貿易を限定しつつも行った江戸幕府が公認の外国町として唯一
残したのが、「倭館」である。
オランダや中国とは長崎出島で外国人町を形成し貿易を行ったが、お隣韓国とはこちらから
釜山に町を作ったんである。それも朝鮮出兵からわずかの期間を置いてである。
時の政権が、朝鮮出兵を行った豊臣からそれに反対した徳川に変わったとはいえ、住民感情
は収まらないだろう中、こんな町を作った当時の交渉力は凄いなぁと思ってしまう。
この日本人町「倭館」とはどんな町だったのか?
「倭館」の館守の日記を紐解きながら、本書は「倭館」の実体を知らせてくれている。
その日本人町を運営していたのは、幕府から依頼された対馬藩であり、この事が対馬藩が、
外様大名として改易の危機から免れていた事。「倭館」は男性だけの町だった事。政府公認
の貿易町であったが、不正貿易の絶えなかった事。当時朝鮮では禁止されていた人参の苗の
海外持ち出しを幕府自ら率先して秘密裏に持ち出し、研究の結果日本でも栽培が出来るよう
になった事。
日本・朝鮮お互いの利害関係のバランスの中に緊張感を持ちつつ、明治時代まで続いたこの
町の存在は、けっしてがちがちの鎖国状態でない事を教えてくれる。
ひょっとしたら、現代よりも国際感覚の鋭い当時の日本人の実態がここから見えてくる。
ところで、
当時ルソンやその他の国にあったであろう日本人町がなくなり、「倭館」だけ残ったのか?
また、出島のような韓国人町が日本に出来なくて「倭館」となったか?
この本を読み終えてもここが疑問である。
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