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NO,005 |
■ 地雷を踏んだらサヨウナラ
4月
著者:一ノ瀬 泰造
出版:株式会社 講談社
ここのところ東南アジアに嵌まっていて、この間はベトナムに行ってきた。
あの無謀なベトナム戦争が、終結しておよそ四半世紀が過ぎ、今や、ベトナムは急成長に
ある。三毛作が出来るこの地では、昼間に戦闘を行い、夜田植えをする。これでは今まで
近代戦争のセオリーである食物の供給ラインを絶って、経済制裁を行う事で勝ったつもり
でいたアメリカがあまりにも間抜けである。
そんな芳醇な地を見てみたいとベトナムに行ったのだが、この地での戦争博物館で当時の
ベトナム戦争の写真を多く見た。
ここはかなり凄惨な写真が多かったのだが、リアルに写そうという報道カメラマンの意図
が働いているせいか、気持ちが悪くなるような事はなくさらりとした乾いた中にも、じわ
じわと訴えてくる何かが感じられた。
多くの写真を眺める中、写真を見ていたら昔若くして亡くなった従軍カメラマンの手紙を
まとめた本があったのを思い出した。それが本書である。
「アンコールワットを撮りたい、できればクメール・ルージュと一緒に。地雷の位置も,
わからず、行き当たりドッカンで最短距離を狙っています・・・」
あわよくば、クメール・ルージュと並んで一緒に記念写真を撮れば、その写真を、ワシン
トンポストに高く売れるかもしれない。戦争開始後誰も入った事のないアンコールワット
の写真を撮りたい。
そんなとてもシンプルな想いから行動する何かおかしい一之瀬青年の生の記録である。
文体もそうだが、タイトルもなんとなくユーモアがある。
「地雷を踏んだらさようなら」なんて何か凄い事なんだけど、不謹慎にも、思わずぶっと
吹き出してしまうおかしさがある。文章も親しい人に送る手紙という事もあって、本人は
まさか本になる事を考えていなかったのだろうが、かなりあからさまな本音の表現が多い。
また映像が浮かんでくるような写実的な文章と書かれている内容が、人が死んでいく日常
と、そんな中でも逞しく生きていく人々の様子が以外に感じて、とても新鮮に見えてくる。
現実とは何か?知りたいという思いが多くの人を巻込んだ時代だったかもしれない。
著者もかなり大胆だが、著者がアンコールワットに写真を撮りたいとその拠点の田舎の村
にある時、日本人が訪れる。彼は大阪の会社員で、戦時下のアンコールワットを見たいと
思ってやってきたらしい。
さすがの著者もその無謀さに驚いている。当時は、そんな時代だったのでしょう。
著者もいつからか多くの死を日常的に目にする事で、あがいても死ぬ時は死ぬんだという
境地に段々と至るようになり、妙にふてぶてしく開き直っていく。
例えば戦闘地域に紛れ込み、政府軍に捕まり、「お前は解放軍か?」と尋問され、「もし
そうだとしたら捕まってはい解放軍ですなんてまぬけな事をいう奴がいるか」こんな悪態
をつき、結果解放される。
政府軍と解放軍の互いの陣地を自転車で行き来し、お互いの軍から気が散って戦闘のやる
気がなくなるから、あっちに行ってくれと言われたりと死と隣り合わせにいながらも妙に、
人間臭いおかしさがある。
もっとも、最前線の互いの兵士は、「今日の戦闘は午後3時からだ」と決めていて、それ
までは、木陰でご飯を食べたり、昼寝をしたり、水浴びをしたりと日常の延長線上にドン
パチがある。
ともすると、悲惨な戦争という言葉を全面に打ち出すこの手の本は、多いのだが、戦争と
いう出来事に、日本の元気有る若者はそこに、「生きること」を感じ、巻き込まれた地元
の人々の様々な日常の生活を淡々と伝えている。
生々しいんだけど、ここには一種の静寂感が、漂っている。
戦争博物館の写真も、同様の静寂感を持っている。
この静寂感は、観たものに対して、じんわりととても重いものを植え付けていく。
最後に、著者が活躍した戦場は、ベトナムでは無くカンボジアである。
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